個人を特定できそうなプロフィール ⑥
母子家庭の暮らし
家族三人慎ましく
このようなこととなり、私は上京した。
父の遺産は負債しか残らなかったため、遺産相続放棄をした。家庭裁判所に行ったのも、このときが初めて。
また、生まれ育った家を、お家騒動により追い出されたため、母と妹と部屋探しに。
ちょうど訪問した不動産屋のお姉さんが、私たちと似たような境遇に遇った方で親身になって探してくれた。
母の実家の近くで少し古いがアパートを見つけ、家族3人みんなで暮らせることとなった。それは家族みんなが喜ぶことだった。私は成人していたが、妹はまだ未成年。
母と妹は公共の母子寮へ、そして私は近所の狭い風呂なしアパートに一人暮らし、という構図も考えていたからだ。それくらいお金がなかった。
いい加減、このふらふらなダメ人間から更生しないといけないな、と大学受験をきちんと見据えた。同時に家計を助けるためにバイトもがっつり入れた。
その後、国立大学はダメだったが、とりあえず私立の大学にひっかかった。希望学部ではなかったが、もういい加減、浪人していられない、と入学を決意。
入学金まではバイトで貯金したが、学費までは支払えないので奨学金を利用した。
そのひとつがあしなが育英会だ。
二度目の大学
人生最初で最後(であって欲しい)DV被害
またもや東京を出ることとなる。
授業は楽勝で、新しい友達もでき、楽しく過ごしていた。
日本酒の良さを知ったのもこの頃。
そして本気で首席卒業を狙っていた。
学生生活はそれなりに充実し、生活費を稼ぐためにバイトもたくさんした。
中でも家庭教師は良い経験で、今でも交流がある生徒もいる。
今度その生徒が運転する車に乗ることになっていて、そんな体験初めてなので今から楽しみで仕方ない。中学生だったのにねぇ、、大人になったねぇ。
私の数あるバイト経験はまた別項目で。
一年生のときには、あしなが育英会が開催する「つどい」に参加した。
大学奨学生メインのつどいには出られなかったが、高校奨学生のつどいでは大学奨学生がリーダーをやるので、そこに参加。
高校奨学生の中には妹もいたのでちょっと恥ずかしかったが、とーっても楽しく、思い出深い。みんながみんな親を亡くした子。
すごいのは親を亡くしたときのことを、全員がみんなの前で話さなければならない自分史の時間があること。
けれどそれを経て繋がる思いは大きい。
傷の舐め合いではなく、みんながそこで成長するのを感じられた。
そんな順風満帆な日々を送っていたが、3年生のときに人生初のDVに遭う。しかも自分より10cmも身長が低い女の子から。殴る・蹴る・噛みつくなどボコボコにされ、私の体からは痣や生傷が絶えることはなかった。
これについて詳細はまた後日
このことで、成績も落ち首席卒業は諦めた。大学院に進学したかったが、これ以上奨学金の返済額が増えるのが怖くなり、推薦をもらう寸前で諦めた。
けれど研究室での実験生活はとても楽しく、ここでもまた良い友達に恵まれた。
新入社員
何が楽しくてサラリーマン
大学院進学を諦めてから急いで就活。
本当はトラックの運ちゃんになりたかったが、母親に「最終手段にして・・・」とつぶやかれ、周りの友達と同じように就活を頑張ってみた。
大企業とはいかずとも、それなりの会社の正社員として入社。
仲良しの同期もできる。
が、毎日通勤電車に揺られ、PCと向かい合い、そんな日々をこれから40年も続けるの?!と衝撃に襲われる。
そんな思いで、ラッシュの中、周りの人たちを見回してしまった。みんなほんとにそれでいいの?と。
それが入社して数ヶ月。
そんなとき、今となっては恐ろしい誘いがやってくる。その誘いに乗って、まんまと退職してしまう私は、たったの1年で正規雇用である正社員を振ってしまう。
それこそが、マルチ商法のお誘いだった。
マルチ時代~社会復帰
超超超超黒歴史
長くなるので後日。
ともかく数年後にようやく無事に脱出できました。
それまでは洗脳されていました。借金も作りました。
おそろしや、おそろしや。
社会復帰してからは、派遣社員・契約社員・正社員と様々な雇用形態と職を行き来し、今は正社員技術職に収まっております。
仕事が続かないのは、私は会社への適応性が無いのだと思います。新入社員時代に持ってしまった疑問を、未だに持ち続けています。でも今でも社畜のままです。
何かできないかな、同じような思いの人いないかな、という気持ちでブログを開設。
それからブログでフリーランスを手に入れている若い子たちを見て、私にもまだチャンスが無いだろうかとわらをもつかむ気持ちで真似してみた所存です。
プロフィール、大変長くなりました。もう個人を特定できそうな勢いです。特定できたなら、申し出てくださいね。
それでは、どうぞこれからよろしく。